戦国時代 (日本) (Sengoku Period (period of warring states) (Japan))

戦国時代(せんごくじだい、1493年(1467年)頃-1573年頃)は、1493年の明応の政変頃あるいは1467年の応仁の乱頃をその始期とし、1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放されて室町幕府が事実上消滅するまでの時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。
室町時代の一部、あるいは信長上洛以後を織豊時代(安土桃山時代)と区分する事もある。
幕府権力は著しく低下し、全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現した。
戦国大名は、ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めていった。
こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

語源

応仁の乱以降の乱れた世相を、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したのが語源。

一条兼良の『樵談治要』の「諸国の守護たる人廉直をさきとすべき事」の条に「諸国の国司は一任四ケ年に過ぎず、当時の守護職は昔の国司に同じといへども、子々孫々につたへて知行をいたす事は、春秋の時の十二諸侯、戦国の世の七雄にことならず」とある。
また近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』の永正五年(1508)四月十六日の条に「戦国の世の時の如し」とある。
「…にことならず」「…の時の如し」という直喩表現からも明らかなとおり、当時の公家が使った「戦国の世」という語は、直接的には古代中国の戦国時代を指していた。

武田信玄の「甲州法度次第」の第20条に「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」とある。
当時の武家も自分たちが生きている時代は「戦国」である、という自覚をもっていた。

江戸時代にベストセラーとなった『日本外史』でも、巻十一に「降りて戦国に至り、この兵各々群雄の分ち領する所となり(中略)之に教へて後戦う者は、武田・上杉より過ぐるはなし。
故に我が邦の兵の精はこの時に極る」とある(原漢文)。
ただし、漢文で書かれた『日本外史』でさえ「戦国」という語の出現頻度は意外に少ない。
庶民が慣れ親しんだ講談や落語などでは「元亀天正の頃」といった表現のほうが一般的であった。
日本史の時代区分としての「戦国時代」という術語が一般でも広く使われるようになるのは、明治以降である。

概要

戦国時代の始期には複数説がある。
以前は1467年に始まった応仁の乱を戦国時代の始期とする見解が有力とされていたが、その後も幕府は中央政権として機能していた。
中央政権としての幕府権力を支えていた幕府-守護体制に大きな動揺が見られ始めたのは1490年前後である。
明応の政変により中央政権としての幕府体制が瓦解した。
このため、今日では政変の発生した1493年を戦国時代の始期とする説が有力となっている。

その終期にも複数の見解が並立している。
織田信長が将軍足利義昭を追放した1573年が通説である。
正確にはこれは室町時代の終焉、安土桃山時代の始まりである。
(さらに正確には、安土桃山時代の始期も複数の説が並立している)。
上記の通り戦国時代は室町時代・安土桃山時代と重なる年代区分である。
信長が安土へ進出して「天下人」へと飛躍した1576年、豊臣秀吉が後北条氏を降伏させ全国統一の軍事活動が終了した1590年を戦国時代の終期とする考えもある。

慢性的な紛争状態が続いた時代だが、必ずしも毎日が戦争状態にあったわけではない。
室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され始め、新興の実力者が新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。
これを下克上という。
様々な経歴の戦国大名が登場する。

それぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われた。
そのような永続的な衝突を可能にしたほど経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で成功を収めることができる経済成長期であったことが時代を支えていた。
社会構造が急速かつ大幅に変質していき、従前の社会体制の荘園公領制を支えていた職の体系が崩壊した。
それに伴って荘園公領制もこの時期にほぼ形骸化した。
経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展し、自らの実力に相応しい発言力を社会に対して要求した時代でもあった。
(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある。)

応仁の乱から明応の政変まで

「万人恐怖」と言われた政治を行った足利義教が嘉吉の乱で死没すると、室町幕府の力は急速に衰えることとなった。
例えば、関東では鎌倉公方が古河城に逃れて古河公方と名乗って関東管領上杉氏との全面戦争(享徳の乱)を引き起こし、将軍が後任の鎌倉公方として派遣した足利政知も鎌倉にさえ入ることができなかった(堀越公方)。
加賀でも大和でも豪族同士の争乱が起こり、将軍お膝元の京都でも徳政一揆が頻発する有様であった。

この最中に将軍の跡継ぎ争いが勃発し、これに山名氏・細川氏ら守護大名の権力争い・畠山氏・斯波氏の跡継ぎ争いなどが加わり応仁の乱が起こった。
大内氏、若狭武田氏など各地の守護大名が上洛し、都を戦場にした争いが10年間続いた。
この戦いは山名氏の衰微・大内ら西軍の京都撤退など細川氏が勝利した形で終わった。
はっきりとした勝利の結果は残らなかったため後々までに影響する。
更に戦中、細川氏が山名氏領国を混乱させるため武将を送り込んだために争いの火種が各地でくすぶり続けた。

戦後も中央政権としての幕府の力は残っていた。
1487年の将軍に敵対する近江守護・六角高頼攻めには尾張・若狭など畿内近辺の諸大名が従い、1492年の足利義稙の河内攻めにも多くの軍勢が馳せ参じている。
この河内攻め最中の1493年4月に管領・細川政元が将軍廃立を行うクーデターである明応の政変に成功し、実権は細川氏に移った。
将軍は各地の大名に身を寄せ頼る存在となった。
細川氏も政元死後、晴元と高国と2派に分裂して混迷を深める。
ここに中央政府の地方への求心力が失墜し、各地豪族は自ら力を蓄え、或いは力ある存在に身を寄せる法なき時代に入ったのである。
この内、自ら力を蓄え自立した者を戦国大名という。

明応の政変から信長登場前夜まで

この明応の政変とは、いわば将軍である足利義稙(足利義視の子)を追放し清晃を将軍としたことだった。
これに対して足利義材は政元の元を逃れて地方へと落ち延び、近畿諸国は足利義稙派と足利義澄派(細川政元派)とわかれることとなった。
専横を振るった細川政元も香西元長・薬師寺長忠らに暗殺された(1507年永正の錯乱)。
細川家もまた細川澄元、細川高国と2派に分かれて抗争することとなった(澄之は高国に討たれた)。
この間隙を突いて1509年に周防国の大内義興が前征夷大将軍・足利義稙(元の足利義材、後に足利義稙と再度改名)を奉じて上京した。
高国は大内義興と組んで義尹を支持し、澄元は義澄を支持し対立。
1511年に足利義澄が没すると、澄元方が劣勢となった。
澄元は何度か京と四国を往復するが結果的には権力を奪えず1520年に阿波で没した。

1521年 細川高国、足利義稙を追放し足利義晴(足利義澄の子)を将軍に迎える。

1526年 細川晴元(澄元の子)・足利義維を奉ずる柳本賢治と細川高国の戦いが始まる。
柳本賢治、京周辺を制圧する

1530年 柳本賢治、暗殺される。

1531年 播磨の浦上村宗と細川高国が天王寺に戦死、細川晴元が政権を握る

1543年 細川氏綱、高国跡目と称し細川晴元と戦う

1547年 三好長慶、細川晴元から離反し氏綱方となる

1548年 三好長慶、細川晴元・足利義晴を追放する

1552年 三好長慶、足利義藤(足利義輝)と和す。

1564年 三好長慶没す。

1565年 足利義輝、三好三人衆に暗殺される

1566年 三好三人衆と松永久秀が対立し、畿内各地で抗争

1567年 織田信長入京

以上で見たように政権掌握者は足利氏から細川氏京兆家(管領家)に移り、続いて三好氏が政権を握った。
細川氏は形式上は管領家であるから執政権が存在する。
細川氏内臣の三好氏にいたっては阿波撫養の豪族というだけで本来なら政権を執れるはずはない。
ここに足利室町幕府の無力化は明確となった。
実際、この前後から現代日本人が俗に戦国大名と呼んで親しんでいる武田信玄、上杉謙信、北条氏康、大友義鎮、島津貴久などの華々しい活躍が始まり全国の戦国騒乱が本格化する。

三好長慶は近畿周辺を制圧した強大な軍事力をバックとして足利氏を追放する。
しかし三好政権の正当性が弱かったために周辺豪族の反発を招き、結局4年で足利義輝に屈服することとなる。
三好長慶の死後は三好政権は迷走し、松永久秀・興福寺・浅井長政らの協力を取り付けた織田信長に簡単に京を明け渡す。
(三好長慶から始まる三好政権について、「堺公方」を参照)

毛利元就による中国支配への契機となった厳島の戦いもこの時期である。

信長登場以後

1568年、尾張国の織田信長が足利義昭を奉じて上洛したことにより、戦国時代の状況が一変する。
信長は義昭の名で四方大名へ命令を発布、天下人への道を歩み始める。
彼が入京して最初にしたことは大津・堺・山崎など商業都市を直轄地としたことである。
また、イエズス会のルイス・フロイスに京都居住・布教を許している(1568年)など京都統治も行っている。

このころになると、信長の動きに関連して各地方も統一への道を歩み始める。
後北条氏、武田氏、長尾氏、毛利氏などである。
これらの全国の大名は信長派か反信長派に分かれて争うことになる。
将軍の足利義昭が音頭を取り、比叡山、本願寺、武田信玄、上杉謙信、朝倉義景、浅井長政、松永久秀、三好三人衆、毛利輝元ら反信長派が結集して信長包囲網を築き上げた。
各個撃破を受け崩壊、足利義昭は京都を追われた。
(幕府という形態はこの後、備後の鞆の浦に細々と続く)。
つづいて自らの利権を失うことを恐れた本願寺も信長に反発、全国の一向一揆を動員して10年間徹底的に抗戦した(石山合戦)。
織田信長はこれらの敵対勢力をすべて撃ち破った。
自らが本能寺の変で倒れる1582年までには日本中央部を制圧し、天下統一の寸前までを実質的に成し遂げた。

後継者である豊臣秀吉は惣無事令を発布して日本全土を名目的に統一した。
更には太閤検地、刀狩、身分統制令、貨幣統一を達成して、これまで各地ばらばらであった日本の全てを一つにまとめた。
秀吉没後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して、諸大名の有無を言わさず配置換えを行い、大坂の役で豊臣氏を滅ぼし、徳川氏一統が日本の実質的支配者とすることを諸大名に徹底確認させた。
一国一城令を行うことは「もう戦争はしません」という諸大名の意思表示でもあった。
そして江戸時代中期、3代将軍徳川家光が死去した後、幕府の武断政治から文治政治への転換は武力による支配の終焉ともいえる。

戦国大名

戦国大名は、そのほとんどが守護大名・守護代・国人に出自する。
国司(北畠氏)や公家(土佐一条氏)に出自する者もいた。
まれに低身分から戦国大名となった者もおり、当時の風潮だった下克上の例とされることが多い。

戦国大名は、領国内に一元的な支配を及ぼした。
この領国は高い独立性を有し、地域国家と呼びうる実態を持っていた。
こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を大名領国制という。
ただし、戦国大名は、領国内において必ずしも超越的な存在ではなかった。
戦国大名は、地域国家内の国人・被官層を家臣として組織化していった。
じつのところ、この国人・被官層が戦国大名の権力基盤となっていた。
戦国大名は、家臣である国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのである。
国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名はしばしば排除された

地域別
東北
東北地方の戦国大名は鎌倉時代から代々土地を所有してきた由緒ある一族が、そのまま戦国大名化したものが多い。
例外は若狭武田氏末裔を名乗る(実際は商人出身か?)蠣崎氏で、津軽海峡沿いの中小豪族を統一した。

東北地方は関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない。
戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は永禄頃まで続く)、伊達氏の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。
篠川公方や斯波氏陸奥守家も滅ぼされるなど、東北地方といえど、平穏無事ではなかった。
また、1522年伊達稙宗が奥州探題・大崎氏らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。

1542年には伊達稙宗父子が家督の位置付けを巡って争いを起こし、血縁関係にある奥羽諸大名を巻き込んだ大乱(天文の乱)へ発展した。
この乱の過程で、伊達晴宗は国人一揆との契約関係を再確認することで、他の奥羽諸大名に先駆けて戦国大名としての体制を確立することに成功した。

これ以降、家督の相続を巡って相克のあった蘆名・田村・岩城・最上・南部などの諸家では、国人一揆と大名の契約関係の一元化により戦国大名化を果たした。
どの戦国大名も従来の大名に替わって室町幕府に「郡検断」「軍勢催促」「段銭徴収」等の諸権力を公認されることで各地域の中心勢力を形成し、そして新しい中央政権たる豊臣秀吉の奥州仕置によって既得権益を追認された。

16世紀第4四半期の時点で、安東氏上国家・湊家が秋田郡、南部氏三戸南部氏(盛岡南部氏)が糠部郡、奥州探題大崎氏が大崎地方、葛西氏が登米郡、羽州探題最上氏が最上地方・村山地方、伊達氏が信夫郡・伊達郡・置賜地方・刈田郡・柴田郡・宮城郡を、蘆名氏が会津・耶麻郡・大沼郡・河沼郡・蒲原郡・安積郡・岩瀬郡、二本松氏(畠山氏)が安達郡、田村氏が田村郡、陸奥石川氏・白河結城氏が白河郡、相馬氏が行方郡 (磐城国)・宇多郡・標葉郡、岩城氏が楢葉郡・岩城郡・磐前郡・菊田郡・多賀郡において安堵を実行した発給文書が残っている。

関東
関東では京都で応仁の乱が起きる以前より、享徳の乱・長享の乱・永正の乱の3つの大乱が立て続けに起こっており、古河公方と関東管領山内上杉家・その庶流の扇谷上杉家が3つ巴になって覇権を争った。

その間隙を縫って伊勢盛時(北条早雲)が伊豆の堀越公方を滅ぼし、その子孫が後北条氏を自称した。
この北条氏と上杉氏が関東の覇者を巡って戦い、1546年河越夜戦により上杉氏の勢力が衰えた。
1552年、北条氏が古河御所を制圧して古河公方を掌握した。
山内上杉氏が上野を追われ上杉謙信(後の上杉謙信)を頼ったことから北条氏と長尾氏(のちに上杉氏を継ぐ)とが関東を巡って争った。

関東管領を継承した上杉謙信は一時は北条氏の居城小田原城を攻囲するも奪えなかった。
この上杉氏・北条氏の争いは全関東の諸豪族を二分して、北条氏康と里見義堯(上杉陣営)による国府台合戦などの戦いを惹き起こした。
1579年、上杉謙信が死ぬと常陸の佐竹氏、安房の里見氏などが北条氏の侵攻に抵抗したが、北条氏の勢力拡大を抑えることができなかった。
更に奥州支配を進める伊達氏によって佐竹義重 (十八代当主)は南北両方面での戦いを余儀なくされた。

やがて、豊臣秀吉が惣無事令を発すると、北条氏政は奥州の伊達政宗・三河の徳川家康と同盟して対抗する。
しかし圧倒的な武力で海から山から迫り来る豊臣軍の前に北条氏は降伏した。
1590年8月に関東に移し替えとなった徳川家康が江戸に入城した。

その後、豊臣政権から江戸幕府成立の過程において、佐竹氏や里見氏などの旧来の勢力は転封あるいは改易によって関東の地から姿を消す事になる。

甲信地方

甲斐国・信濃国では守護権力が弱体化し有力国人が割拠する状態となっていた。
甲斐国では甲斐源氏の流れを汲む武田氏が上杉禅秀の乱に荷担して没落し戦国時代に至るまで抗争状態が続いていた。
信濃は深志(現在の松本地方)に小笠原氏、北信を村上氏・高梨氏、木曾を木曾氏、諏訪を諏訪氏、東信に海野氏など国人領主が割拠していた。

武田信虎が甲斐一国を統一し、甲府を本拠地と定めた。
隣国との和睦も達成して信濃侵攻を開始する。
しかし、嫡男の晴信(信玄)や重臣らによる謀反で国外追放される。

武田信玄は信濃侵攻を本格化した。
甲相駿三国同盟を背景に諏訪攻略をはじめ、小笠原氏、村上氏らは駆逐され信濃は武田領国化された。
信玄は信濃守護を兼ね、北信豪族を庇護した越後の長尾・上杉氏との甲越対決(川中島合戦)を繰り広げた。
信玄後期には北進から南進へ方策転換し駿河侵攻を行い、尾張、三河の織田・徳川氏と対峙した。
信玄晩期には大規模な西上作戦を行うが信玄の急死により途上に終わる。
武田勝頼期には長篠の戦いにおける敗退で領国の動揺を招き、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、信濃諸族は織田氏に臣従した。

武田氏の滅亡により甲斐・信濃は織田家臣に分配される。
本能寺の変により空域化すると武田遺領を巡り徳川氏や後北条氏による天正壬午の乱が起こり、甲斐・信濃は乱を制した徳川氏が領した。
豊臣政権により徳川氏が関東に転封されると信濃諸豪族も関東へ移る。
この中で武田遺臣の真田氏など近世大名化した例も見られる。
また、保科氏は将軍徳川秀忠の庶子・保科正之が継ぎ、小笠原氏は豊前小倉藩で九州の押えを任じられるなど徳川政権下では重く用いられている家は多い。

北陸

越後国を上杉(長尾)氏、加賀国を一向一揆、能登国を畠山氏、越前国を朝倉氏、越中国を神保氏、椎名氏らが支配していた。
越後国では守護代長尾氏が実権を握り、上杉謙信を生み、1576年までに北陸地方をほぼ制圧した。

加賀国では一向一揆が守護冨樫氏を滅ぼして「本願寺王国」を形成、100年間の自治を行った。
いずれの国もこの勢力の扱いに苦慮した。
越中の神保氏は当初敵対していた一向一揆と結んだが、越後上杉氏、守護畠山氏、能登畠山氏の連合軍により征伐された。
一向一揆はその後も上杉氏、朝倉氏などと抗争を繰り返し、朝倉氏滅亡後は越前をも支配するが、織田信長との石山戦争に敗れ、殲滅された。

越前の朝倉氏は一向一揆を退けて本拠の一乗谷に京の貴族を迎えるなど栄華を極めた。
やがて織田信長と天下を巡って争うが、1573年戦い利あらず滅亡する。
能登は守護の畠山氏が遊佐氏や長氏らの重臣たちの専横に苦しみ、内紛を繰り返した。
1576年、上杉氏の軍門に下り滅亡した。

東海

駿河国に今川氏、遠江国に斯波氏、三河国に松平氏、尾張国も斯波氏、美濃国に土岐氏が一国一円割拠していた。
斯波氏は越前を朝倉氏の離反で失ったため尾張に本拠を構えた。
この斯波氏が朝倉氏との越前回復戦争に敗れ、京都での政争にも敗れると力を失い、遠江は今川氏の侵攻に任され、尾張は守護代・織田氏の傀儡的存在となる。
松平氏は松平清康の時代に版図を雄飛させるが、1535年守山崩れによって清康が家臣に殺されると今川氏の陣門に下った。

今川氏は今川氏親、今川義元が勢力を伸ばした。
甲斐国の武田氏・関東の北条氏と三国同盟(善徳寺の会盟)を結ぶとさらに西進した。
しかし、織田氏を攻めるため尾張に出兵したところ、桶狭間の戦いで義元が戦死し、今川氏は衰えた。

美濃の土岐氏は内部争いが展開され、その隙を突いて主君を追放して美濃国主となったのが斎藤道三である。
尾張は下守護代の郡奉行出身の織田信長が上下両守護代の内紛に乗じて尾張国主に収まる。
信長は今川義元を桶狭間に戦死させると三河の松平氏と結ぶ。
そして、美濃攻略に着手、5年の歳月をかけて美濃を奪うと稲葉山城に本拠を置いて天下の経営に乗り出した。

一方、三河の松平元康は織田信長の攻略戦に手勢を率いて支援を行いながら三河・遠江の平定を進めて名を徳川家康と改名した。
甲斐の武田氏が今川氏を滅ぼし1573年に三方ヶ原の戦いで徳川、織田両軍を撃破するも信玄の死で武田軍の西進が頓挫した。
1575年長篠の戦いに織田、徳川軍が鉄砲の力を利用して武田軍を破ると1582年徳川軍は武田領の遠江、駿河を得た。
本能寺の変で織田信長が死ぬと織田領である甲信に侵攻し、勢力下においた。

1590年、豊臣秀吉により天下が定まると、秀吉より関東移封を命ぜられたため家康は武蔵の江戸を本拠とした。
やがて家康は秀吉の死後に発生した関ヶ原の合戦の勝者となって江戸幕府を開く事になる。

近畿

初期の畿内においては足利将軍家と管領の細川氏との抗争が繰り広げられた。
ただし、この抗争は大内氏などを主体とする地方勢力が足利氏を利用して中央介入を試みた側面が強い。
細川氏が内部の権力闘争により弱体化すると、足利氏を補佐するという名目で、近江国の六角氏による介入が強まった。
近江においては、佐々木氏の分家である北近江の京極氏と南近江の六角氏が覇を競った。
京極氏は支配下にあった国人の浅井氏によって実権を奪われ、以後は浅井氏と六角氏の争いが続いた。

基本的には各国とも室町幕府の定めた守護大名が、そのまま戦国大名化したケースが多い。
彼らは国人の推戴によってその地位が保たれたから、非常に弱い立場でしかなかった。
河内国の畠山氏、但馬国の山名氏、丹後国の一色氏、若狭国の武田氏などは周辺の諸勢力に国を奪われかけたり家臣の内紛に悩まされながら、しぶとく戦国時代を生き抜いた。

紀伊国では高野山・根来寺・熊野三山などの寺社勢力の力が強く、守護畠山氏の支配力は限定的だった。
紀伊の地侍は連合して根来衆・雑賀衆などの集団を形成し、宗教を盾に地域自治を行った。

先に述べた足利氏や細川氏の内紛は六角氏や赤松氏・浦上氏・畠山氏・筒井氏など周辺の豪族を巻き込んで行われた。
しかし、本格的な騒乱は三好氏の政権掌握以降となる。
彼らは領国の阿波国を始め、讃岐国、淡路国、摂津国、和泉国、河内国、山城国、丹波国、大和国などを実力で支配し、それぞれ腹心をして支配した。
しかしいずれの国も完全な統治はできなかったようである。
三好長慶の死後の混乱を経て織田信長の上洛によって平定されていく事になる。

中国

初期は大内義興と尼子経久との対立があった。
大内義興は勘合貿易を掌握して勢力を伸張、一時は中国九州7カ国に覇を唱えた。
将軍を奉じて周辺諸大名を従えて上洛をも成し遂げた。
尼子経久は守護代ながら富田城を奪って守護を追放し、出雲等の山陰に基盤を作る。
一方、大内氏と何度か交戦するも決着が着かなかった。

両勢力の接点にあった安芸国では国全体の国人が一致団結して惣を築いていた。
強国に挟まれていた関係上、国人の一人毛利元就が集団の統率者となり戦国大名化した。
毛利元就は尼子氏を裏切り大内氏についたため、尼子晴久が吉田郡山城へ向けて進軍。
毛利元就は大内義隆に援軍を要請し援軍到着後尼子氏を撃破する(吉田郡山城の戦い)。
大内氏の内部争いによって大内義隆が死亡し、8ヶ国守護となった尼子晴久と大内義長を傀儡とする陶氏が共に力を持ち拮抗するが、大内氏は毛利氏に攻められ滅亡する。
更には出雲国においても尼子晴久の急死によって尼子氏は衰えた。
毛利氏に攻められ、難攻不落と讃えられていた今の島根県安来市にあった月山富田城に篭城するが兵糧攻めにあい開城した(月山富田城の戦い)。
これにより毛利氏は中国の覇者となる。

織田信長の中国方面軍の豊臣秀吉が攻めて来ると三木城(三木合戦)、鳥取城、高松城 (備中国)が次々と落とされたが、本能寺の変が起き命拾いした。
その後毛利氏は豊臣氏の配下となり四国征伐、九州征伐、小田原の役などで活躍し、毛利輝元が五大老に就任する。
豊臣秀吉が死ぬと徳川家康と石田三成が対立し、関ヶ原の戦いが起こる。
毛利氏は西軍についたため周防国、長門国の二か国の36万9000石になった。

この他の主要戦国大名としては、備前の浦上氏(浦上村宗)、同じく備前の宇喜多氏(宇喜多直家)などがいる。
浦上村宗は播磨赤松氏の重臣であったが、赤松政則の死を機に下克上し赤松領国の播磨国・備前国・美作国を奪う。
零落した細川高国を奉じて上洛も果たしたが、三好氏に敗れて戦死した。
浦上氏は浦上宗景の代に入ると重臣宇喜多直家の離反によって崩壊する。
備前国を手中にした宇喜多直家は時代を読む目があった人物のようで、羽柴秀吉が播磨姫路城に入ると降伏、自分の嫡子宇喜多秀家を秀吉に人質にするなどした。
しかし、秀家は関ヶ原の戦いで西軍の中心武将と見られて流罪となり、大名としての宇喜多氏は滅んだ。
(子孫は流罪先の八丈島で家系を保ち、現在も同島で墓を守り続けている)。

四国

東四国(阿波国・讃岐国)は近畿に近いだけでなく、細川氏の勢力基盤でもあったから、近畿の政争にしばしば巻き込まれた。
しかし、周囲に敵たる勢力は存在せず、長宗我部氏の四国統一戦までほぼ領主の顔ぶれは替わらなかった。

阿波は細川氏が支配した。
のち撫養の三好氏に実質的に取って代わられるが、細川氏自体は江戸時代まで撫養として存続した。
戦国時代には勝瑞城が阿波統治拠点となった。
讃岐は東讃岐は守護代の安富氏が統括していた。
のち三好氏一族の一存を迎え入れた木田郡・植田一族の十河氏が三好氏の代官として勢力を伸ばし、早い段階で東讃岐を総括した。
西讃岐は守護代の香川氏が毛利氏などと結んで当初は三好氏と対立するが、善通寺合戦後、三好氏の支配下に入った。
しかし三好氏が衰えると彼らは織田氏へなびくようになる。

伊予国は守護の河野氏が中予、宇都宮氏が大洲一帯、西園寺氏が南予を割拠したといわれる。
地理的に細長く山岳地帯が多い上に、中国・九州と近いために常に毛利氏・大友氏の干渉に晒されることになり、一国を統一し他国へ侵略するような勢力を持てずに終わった。
しかし、長宗我部の侵略に際しては頑強に抵抗した。

土佐国の守護は細川氏であるはずだが、七守護(土佐七雄)と称した豪族が土佐中央部に割拠、幡多郡に疎開してきた土佐一条氏を盟主と仰いだ。
一条氏は七守護の3倍強の力を持って土佐政治に関与した。
のち、一条氏の援助によって再興成った長宗我部国親・長宗我部元親が七守護や一条氏を追放して土佐を統一する。
そして土佐平定後10年かけて1585年に四国を統一した。
淡路国は守護・細川氏が統治していたようだ。

のち、秀吉の四国征伐のため長宗我部氏は土佐一国に押し込められる。
戦後処理を見てみると、秀吉は阿波に蜂須賀家政、讃岐に仙石秀久、伊予に小早川隆景と信任できるメンバーを集めている。

九州

九州の武家は平家方だったため鎌倉幕府を開いた源頼朝からの信頼感は薄かった。
頼朝は、九州の抑えとして、関東では無名に近いが近臣として取り立てていた少弐氏、大友氏、島津氏を代官的存在として九州の守護とした。
鎌倉時代、筑前国・肥前国・豊前国は少弐(武藤)氏、筑後国・肥後国・豊後国は大友氏、薩摩国・大隅国・日向国が島津氏と九州の統括体制がなされた。
その下に地頭として平安時代以来の松浦氏、秋月氏、蒲池氏、菊池氏などの元平家方の武家が盤踞していた。
戦国時代当初、少弐、大友、島津の三氏は権益を守るべく、また地頭出自の諸国の国人豪族は自立するべく、戦いが展開していった。

しかし、少弐氏の勢力は九州探題に敵対したために室町時代後期には既に衰えていた。
宗像氏や麻生氏など筑前・豊前の国人は中国地方の大内氏の影響を受けた。
少弐氏は肥前・対馬国の兵を率いて大内氏掃討に何度も筑前に侵入するが、逆に大内氏の側についた龍造寺氏の下克上により滅ぼされた。
この大内氏が陶氏によって滅ぼされると肥前は自立、筑前と豊前は大友氏の干渉を受けた。
陶氏を滅ぼした毛利氏友族が両国に存在したため毛利氏と大友氏は北筑前にて戦いを展開する。

大友氏は豊後を拠点に南筑後の蒲池氏を筆頭とする筑後十五城が盤踞する筑後、さらに阿蘇氏や相良氏の肥後に勢力を伸ばした。
陶氏が大内氏を滅ぼすと、これを支援し、豊前・筑前をも得た。
また大友義鎮は同時にキリスト教を保護し南蛮貿易を盛んにした。
しかし大友氏は島津氏との耳川の戦いで大敗、家臣や幕下の国人の離反が相次いで急速に衰えていく。
それを機会に肥前では少弐氏に対する謀反で勃興した龍造寺氏が勢力を拡大、龍造寺隆信の代になってほんの一時期、大友・島津と肩を並べるまでに伸張した。
しかし、沖田畷の戦いで隆信が戦死すると急速に衰え、やがて重臣の鍋島直茂が替わった。

島津氏の戦国時代は一族内部の争いで始まった。
しかし分家の島津忠良の子・島津貴久が本家を継いだ。
祁答院氏、菱刈氏、肝付氏などの数多いた豪族と戦いに明け暮れた。
その後、島津貴久の息子の島津義久の指揮の下、薩摩・大隅を統一。
木崎原の戦い以後は伊東氏を平らげ、大友宗麟との耳川の戦いで大勝利を収め、薩摩・大隅・日向三州統一を完全なものにし、九州統一戦を開始した。
残すは筑前・豊前のみというところで豊臣秀吉の中央軍の介入が始まり、降伏した。

軍事
戦国時代の諸勢力は、必ずしも全期間絶え間なく合戦に明け暮れていたわけではない。
しかし、少なくとも勢力間において発生する諸問題の解決に際して行使可能な手段として、武力、すなわち軍備の果たす役割に注目が集まる傾向にあったことは確かである。
諸勢力は軍備の整備・維持・向上に意を払っていた。

そして、これは戦国大名や国人・土豪層はもとより、宗教組織や、自治組織においても同様である。
宗教組織は、依然として僧兵組織の維持や、戦闘拠点となりうる寺院の造営に力を振り分けた。
あるいは、自治組織においても、矢倉や塀、環濠のような防御施設の構築、牢人の傭兵化を行った。

さらには、一部の公家も限定的とはいえ、必ずしも自衛目的のみとは言えない軍事活動に自ら携わるなど、あらゆる階層を通じて、ある種の”力に対する信奉”があったことは注目される。

合戦
戦国時代における合戦には、示威行動や小競り合いといった、低強度の武力闘争から、戦国時代に含めるか否かは別として、少なくとも戦国時代の延長線上にはある関ヶ原合戦のように、国内を二分しての会戦・決戦といった、後の国家総力戦にある程度擬し得る戦争形態、さらには、文禄・慶長の役である文禄・慶長の役まで、多様な戦争形態が見られる。

武力紛争の総数から見れば、その大部分は、隣接する非友好的な勢力が互いに、領地、あるいは、影響を及ぼし得る勢力圏の境境付近において繰り広げる小競り合い・抗争レベルの応酬であった。

この中には、敵兵力に対して実力を行使するだけでなく、隣接勢力に対する嫌がらせの意味も含め、日常的な焼討ちや、食料を断つ“刈り働き”(あるいは“青田刈り”)も含まれており、結果として、そのエスカレーションが、大規模な軍事行動を誘引する面もあった。

城と築城
戦国時代に築城あるいは使用された大部分の城は、戦国時代末期から江戸時代にかけて築城された、現存の姫路城や松本城のように世界遺産や国宝に指定されたり、あるいは大坂城、江戸城、名古屋城のように、都市の歴史の象徴として、広い年齢層の人々があまねく一般知識として認知するまで敷衍されてはいない。
大小および有名・無名を問わなければ1つの村に複数以上といわれる存在があったため、近年、郷土史などの観点から注目されている。
また、郷土の武将が拠った城が、主に敵対する大勢力によって陥落したという史実から派生する落城哀史のような物語の舞台として語られることもある。
さらに現代においては、城跡がいわゆる心霊スポットなど怪奇現象の舞台としての関心をもたれることもある。
これは、有名な近世城郭の多くは、少なくともその状態での実戦を経験していないために現在まで良く保存された遺構が残されている一方で、戦国時代の城が没落し、あるいは近世城郭に生まれ変わることのできなかった原因の1つは、陥落を経験し、その後、放棄されてしまったためであることを示すものでもある。
戦国時代の城は、“よく知られ、有名”でないために、開発に際して必ずしも十分な調査や記録がなされないままに貴重な遺構が破壊されてしまうこともある。

戦国時代における永久築城は、一般的に、東国においては土の城、西国においては石の城と称される。
これは、当時の文化先進地である西国において石垣を多用した築城が発達し、また東国においては、築城に適した石材の採取が困難であり、土塁の使用が多かったためとされる。
しかしながら、石垣の構築と土塁の構築には工事量に差があることを無視している問題がある。
石垣の存在を至上とする見方も潜んでいる。
近年においては、各戦国大名がそれぞれ得意とし、特徴を持つ築城術を個々に扱った研究も進んでいる。
これは各戦国大名固有の戦術ドクトリンとも密接に関連している。
甲斐国武田氏領内における城を中心として見られる迎撃と射撃が補完しあう拠点としての曲輪馬出や、関東地方の後北条氏領内や九州北部地域の城を中心として見られる敵の侵攻経路を管制する堀城の堀、あるいは、火縄銃が多く流通した畿内を中心として見られる射撃拠点としての矢倉や望楼を多く伴う城など、地域ごとにさまざまな縄張りへの工夫が見られる。

経済と社会
戦国時代は、室町時代後期から引き続き、戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化したことから、貨幣の持つ相対的な価値が向上することになった。
特に、戦国時代初期にあっては、勘合貿易および一種の密貿易である私貿易といった日明間の貿易によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。
また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。

これに伴い、戦国大名にとっては、戦国時代から始まるとして世界遺産にも指定された石見銀山に代表されるように、領内にある金山・銀山の運営が、軍資金の調達のために戦略的な重要性を増した。
諸戦国大名は産出する金銀の品位改善のために灰吹法や砂鉄による鑪生産などといった新技術の導入を積極的に行った。
さらに、金山・銀山の保持が主目的の城砦も築かれ、金山・銀山を巡っての争奪が繰り広げられた。

その一方で農村部では各地に存在した荘園は戦国大名や国人領主による押領の対象となり、荘園制は解体する。
だが、徴税体制の中に依然として従来の名体制・職の体系を継承した部分も残されたものの、次第に大名主導による年貢などの負担の平均化が進められた。
また、一地一作人原則が確立されて土地に対する借耕が盛んになり加地子・作徳分が成立するようになる。
戦国大名の元で大規模な新田開発や灌漑整備が進められ、築城技術で培われた土木技術が農業面でも応用された。
『拾芥抄』によれば100万町歩とされた全国の田畑面積が、慶長年間の慶長日本図編纂においては160万町歩であったとされている。
更に各地で米以外の特産物も盛んに生産されるようになり、山城国・大和国の茶や紀伊国の蜜柑などが知られるようになった。
また、木綿栽培が普及したのもこの時期である。

商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った堺や博多が栄えた。
拠点間輸送には水運が多用され、東南アジア地域の輸送ネットワークの一部としても機能していた。
堺の繁栄は特に顕著であった。
会合衆である納屋衆による合議制の元、自治を行い、都市全体に濠を巡らし、牢人を傭兵として雇うなど、戦国大名による支配も拒絶していた。
しかし、織田信長の台頭により、力を失うに至った。
他の都市としては、京都や、地方では山口・小浜・品川湊なども集積地や中継拠点としての役割を果たしている。

戦術の個人戦法から集団戦法への変換は、武器や甲冑の需要を増した。
刀鍛冶らの職人も、それまでの銘物としての一品生産を中心とする生産方法から、ある程度の使い捨てを念頭に置いた大量生産を行うようになった。
さらに、火縄銃など火器類の流入は、従来、非常時には徴発によってかなりの部分を賄いえていた軍需物資に、火薬など大量消費型の品々を加えることになり、ロジスティクスの重要性が高まった。
茶屋四郎次郎のように、いわば“死の商人”として戦国大名の兵站を請け負う商人も出現した。

「食うための戦争」と民衆

戦国時代初期の頃は通常農閑期に行われる戦は農民兵たちにとって支給される賃金と陣中食はじめ兵糧、即ち現金収入がある出稼ぎと食い扶持減らしの出来る一挙両得の短期雇用の場であった。

藤木久志は著書『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社)などで、戦国大名の英雄的な活躍の影で繰り広げられた雑兵たちの「食うための戦争」について論じている。

武士たちのぶつかり合いによる戦闘という戦場の一般的なイメージの裏で、雑兵たちは戦闘以上に「乱取り」と呼ばれる略奪行為に熱中していた。
放火や刈田による略奪、そして一般民衆や農民を奴隷として拉致する行為は戦国時代といえども犯罪である。
ところが、戦国の戦場ではこれらが合法のものとして許されていたのであった。

雑兵たちは、これらの乱暴、狼藉を繰り返すことで生活しており、戦場とは生きるための稼ぎの場であった。
戦国大名も恩賞の無い雑兵たちを戦争に駆り立てるために乱取りを認め、褒美の略奪を容認していた。
越後の上杉謙信(長尾景虎)は他国出兵を積極的に行っている。
これは短期(北信濃)・長期(関東)に関わらず冬期に行われており、「出稼ぎ」と「口減らし」の性格を持つものであると藤木は指摘する。

奴隷狩りと略奪は各地で行われた記録が残り、海外へ売り払われた人々もいた。
こうした略奪は天正15年(1587年)の秀吉の人身売買停止令まで続く。

文化・宗教
戦国時代初期の文化は北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。
しかし、下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする桃山文化の発露への布石となる。

特に、千利休による茶道の大成は、禅の思想に基づく“わび・さび”の考え方と、豊臣秀吉の発案との言い伝えを持ち、美醜について大きく意見の分かれる“金の茶室”という極限的な豪壮さを一つに内包したものと言え、今も日本文化全体に強く影響している。

戦国時代に活動した画家には雪舟等楊、雪村、土佐派の土佐光信、狩野派の狩野元信、長谷川等伯らがいる。
また、室町時代から文芸や画を嗜む武将が出現した。
現在においても作品の美術的価値が評価される武家の人物には、『鷹図』(土岐の鷹)の土岐頼芸や、『武田信虎像』・『大井夫人像』で両親の肖像を残した武田信廉らがいる。

文化の担い手としての天皇や公家は、この戦乱の時代には、文化の相伝に存在意義を見出すことを強いられ、自らも見出していた。
東常縁や細川幽斎(藤孝)といった文化人の武家をも巻き込んで有職故実や古今伝授という文化の相伝を続けた。
彼らは戦乱を避けて地方に疎開することもあった。
土佐の南画などはそのようにして伝わった。

ただし、公家社会でも近衛家のように足利将軍家と婚姻を結び、地方の大名・武士と朝廷との間を取り持つことで社会的な地位をある程度まで保った層から家領を武士に奪われて生活に困窮し地方に疎開するだけの人脈も持てずに没落した層まで様々であった。
永正16年(1519年)に発生した越水城の戦いを巡る当時の近衛尚通の日記『後法成寺関白記』と鷲尾隆康の日記『二水記』を比較すると両者の違いが明らかとなる。
近衛尚通の元には合戦当事者を含めた武将やその家臣、僧侶など様々な身分の相手から情報が寄せられて合戦の事情を把握していることが分るのに対して、鷲尾隆康は公家社会の風説を聞いて「恐怖」するのみであったことが知ることが出来る。
後者のような公家は武士層など他の階層とのつながりも持つことなく、やがて歴史の中に消えていくことになる。
(実際に鷲尾家は隆康の代で断絶して江戸時代初期になってようやく再興されている)。

武家は名家のみならず、新興の勢力も文化振興に寄与している。
これは、文化を取り込んで箔付けするという面が強いが、動乱の時代に文化によって心を休めるという、安らぎを求める思いのあらわれとしても捉えることができる。
周防の大名・大内義隆が京の貴族を多数招いて山口を京都化することに尽力したのはその例である。

宗教については、日蓮宗や浄土真宗といった厭世気分と免罪への求心から発しその後救世への渇望と強い結束を見せた宗派の布教が成功している。
その一方、伝来したキリスト教も広がりを見せていく。

[English Translation]